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2007年1月8日設置 サイト→http://warakosu.syarasoujyu.com/
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蟹よりシュラの方がおかしい!忠誠心の厚い聖闘士なのに!
という御意見をいただきました。
が、シュラは自分が忠誠心の厚い聖闘士だとは原作では一言も言ってないので、私は別にその点については特に疑問はないです。
むしろ第一話でアイオロスに懐いてることの方が違和感あった。

ていうか、今改めて十二宮編のシュラ読んでるんだけど、思ってたよりはるかにマジで何も言ってなくて驚く。エクスカリバーの話しかしてませんねあんた!

紫龍が亢龍覇と共にアテナの話題持ち出してようやくですよ。忠義なんか無い無い。あるのはせいぜい「実力も無いのにでかいことを言う奴が嫌い」という人間の好き嫌いくらいだ。

エピゼロのシュラはウザイ系風紀委員みたいな感じなので、たぶん彼にとって大事だったのはアイオロスよりも「秩序立った聖域そのもの」で、そこから離反したアイオロスと、彼を離反させた女神はどっちも赦せなかったんじゃないでしょうか。
「これでいい」と13年かけて自分に言い聞かせ、その根拠をサガの力に求めた、そういうことだと思います。エピゼロ時空のシュラはな。

それにそう考えれば、十二宮編でびっくりするくらい何も考えて無かった事にも説明はつく。
辛くて考えるのやめたんだろう。
「人間はすべて自分のために戦うのだと思っていた(後略)」の台詞も、信念というよりは漠然とそう思ってきた、という感じで、さらに言うと「思っていた」のではなくサガによって「思わされてきた」んじゃあないかなという気がします。
シュラは良くも悪くも真面目で素直な人で、その為に不安定な環境では信念が育たず、紫龍と出逢うことでようやくそれを得たんではないでしょうか。
そして、蟹と魚はもう勝手に信念作ってから万事手遅れだったと。そういうことだ。きっと。

シュラは私が思っていたよりも、もしかしたら頭悪いのかもしれない。
・・・エピゼロはエピゼロで割り切るつもりですが、この先私の書くシュラは、たぶん若干アホになる。
そんな気がします。
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エピゼロ最終回を読みました。一週間ほど前に。

蟹に恋する女がこれを読み、その後BLEACHを一気読みし、よく今ジャンル替えしないで星矢に踏みとどまっているもんだと私は・・・私は・・・・!!

一つもいいとこ無い一つもいいとこ無い一つもいいとこ無いぞ13年前のデスマスク!
だが私よ落ち着け、これはエピソードゼロだ、13年前の話だ、逆に考えろ、

まだあと13年あると!!

もともと善良な少年だったが13年前にグレた説は初回に否定された。
そして13年前から蟹だった説も最終回にある意味否定された。

つまり、蟹は昔に比べりゃ良くなっていることが証明されたと言える。

13年前の彼は蟹だった。十二宮編での彼はデスマスクだった。冥界編で再び蟹と化し、嘆きの壁でデスマスクに戻った。

蟹の時とデスマスクの時で何の差があるかっつったら、上司がシオンかサガかの違いだよ。

シオンが諸悪の根源説。

何をやりやがった元教皇!!それともサガの躾が凄いのか!?

考えてみれば、サガにとってはひたすら悪事を隠したかったところだ、価値観がゲスなのはまだしも、妙なテンションとオカマ言葉でクソ目立つ部下は許せなかったに違いない。蟹の立ち居振る舞いを矯正し、13年かかってようやくデスマスクまで持ってきたのだろう。

それがシオンの復活によっていったんチャラに。
サガもあの時は色々やることがあったから蟹の面倒をみている場合では無かった。
その分、嘆きの壁の前ではどさくさにまぎれて幻朧魔皇拳一発ぶちこむくらいのことはしたのだろう。
そうでなくても、世の中には3の倍数と3のつく数字でアホになる人もいるのだ、サガの倍数とサガのつくタイミングでマシになる蟹がいても何もおかしい事はない。
嘆きの壁の時にシオンが復活していなくて本当によかった、下手したら蟹のとこだけ電球が切れてるみたいなことになりかねなかった。

デスマスクはサガがいないとやっていけない。
そう、結論しました。


以前、少しだけ読んだ時には阿散井恋次が好きだったのだが・・・
今ちゃんと読んだら愛染が本命になるんじゃ?と思って読み直した結果、いつのまにか私の本命になっていた浮竹十四郎
良かった。こんなに正しい意味で素敵な人を好きになれて本当に良かった。

次点は涅マユリなんだけども。

・・・尸魂界編ではむしろ涅は大嫌いで、命取れなかった事が悔しくて仕方なかったんですけどね。
破面編での涅隊長は私のガッツポーズの全てを持って行った。
絶対お近づきになりたくないけど味方になったら頼もしすぎる。
もし私が死神でピンチに陥ったならば、間一髪で助けに入るのと介抱と慰めは浮竹隊長にしてもらいたいが、相手を煽り倒すのとしばき倒すのは涅隊長一本でお願いしたい。

破面編を読み終わったところですが、この先読み進めて本命と次点が逆転しないことを祈らずにはいられません。
浮竹隊長が好きです。浮竹隊長が好きなんです。


あああああああああ;


でも、でもこれはもう仕方ないか・・・!
眼鏡先輩がナイスショットだった!
日本勝ってほしかったけど、最後の最後で全責任かぶさってきた眼鏡先輩のプレッシャー考えると、正直あんまりミスれとも思えなかった;
悔しいと同時にホッとしてる自分も否めない。
ていうか眼鏡先輩も、ただでさえプレッシャーかかるだろうにこんな濃いキャラついてしまう眼鏡をかけてはいけないと思う。
ヒーローになるか戦犯になるかハイリスクハイリターンな眼鏡だろこれ。

良かったね韓国。決勝も頑張ってくれ。
うおおおおお女子凄い!!!

もうこれみんなに何らかのメダルをあげてもいいんじゃないか。

私は、ザギトワ優勝に心から納得しています。
構成が一部でボロクソ言われてるのでどんなだと思ったけど、凄く楽しいじゃないですかー!
全然カオスじゃないですよ。表現力がメドベージェワに比べてそんなに劣っているとも思わなかったなあ。ジャンプも表現の一つだもの。そりゃこっちがアンナカレーニナだったら問題あるかもしれませんが、ドンキホーテでしょう。いいじゃないのこれで。楽しい!美しい!好き!
っていうかスポーツにおいて、若さゆえのパワーに勝る表現って、そんな無いと思うんだ・・・二人ともまだ10代だもの、若さを出し切った方が勝つよ。うん。

それに、1988年に男子は四回転を決め、女子は三回転半を決めたのに、現時点でのスポーツとしての進化の差を考えると、女子はむしろこの挑戦を大歓迎してよくないでしょうか。
怒涛のノーミスは素晴らしい。でも、裏を返せば、まだ身体能力の限界にチャレンジしきれていないということだとも思うんです。
五輪はスポーツの祭典であって芸術祭では無い。
そこに釘を刺したいからこそソチ五輪ではキムヨナではなくソトニコワを優勝させたんだと思ってます。

ジャンプか芸術か!というのは男子でも散々激論交わされてきましたが、プルシェンコがどっちも!!ってやり続けたから今があるわけです。
私もバトル派だったので芸術重視でいいじゃんと思っていた時代がありました。
しかし今現在、4回転を皆が普通に跳ぶようになって、じゃあ芸術性が消えたかというと、そっちもパワーアップしてるじゃないですか。
スポーツとしての技術を止めてまで芸術のバランスを保ってはいけないんですよ。

また、メドベージェワは確かに役者的な表現力があったと思いますが、しかしそれがスケーティングの芸術性に繋がっているかというと、私はちょっと疑問でした。
彼女の表現はまだ上半身だけにとどまっている。
今まで芸術性に長けたスケーターは、何をさておいてもまず、靴が魔法をかけたみたいに滑ってました。足元だけ映しててもいいくらいスケーティングが美しかった。重力も何も無くて、音楽そのものを滑るみたいに滑る。それがスケートの芸術だと思います。
彼女はまだそこまで行ってない。普通の靴に見える。
役者って才能に勝る努力無しだから、そこを評価しちゃうと田中選手がどんなに跳んでも寝ているだけの羽生が勝つみたいなことになっちゃうじゃないですか。それは駄目じゃないですかいくらなんでも。
だからザギトワと芸術点で大きな差がつかなかったのも、そんなにおかしくないと思います。


いやでもしかし、二人とも素晴らしかったです。
おめでとうございます。
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