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2007年1月8日設置 サイト→http://warakosu.syarasoujyu.com/
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聖闘士星矢が現在もファンを増やし、何度となくリバイバルを起こす理由は、この漫画の登場人物が果てしなく無欲だからではないかと思いました。
戦いの動機として「何かが欲しい」「自分が何かになりたい」という我欲が敵にすらない。
全員天涯孤独みたいなものですし、家族を守りたいとか大切な人を守りたいとかでもなく、今の世界を幸せにしたい、というものでも無い。自分が幸せにできるとはそもそも考えてない。未来が続けば必ず幸せは人の間から生まれると信じて、未来を守るためだけに自分の命を懸ける。

その究極が黄金聖闘士だと思ってます。
青銅はまだ戦って強くなるというメリットがありますが、黄金聖闘士は最高まで極めちゃってるわけで、戦っても良くて現状維持、悪けりゃ死亡という何の利益もない中で全力で戦ってるんですよ。
それが彼らの存在意義なんですよね。最高に至ったから後は好き勝手生きていい、自分の好きなように力を使っていい、というわけじゃない。

・・・と、考えた時に、宝瓶宮のカミュの戦いがまさにそういうことだったんだと思いました。
あの戦いで、カミュが意識をうしなった氷河に凍気を押し返しながらも目を覚ましてよけろと呼びかける矛盾したシーンがありますが、あれがもう黄金聖闘士としてのカミュだったんだと。
仮にですよ、カミュが宝瓶宮で氷河可愛さに迷いが生じたとかそんなんなって負けてたら、氷河はこの先聖闘士としての無欲を永遠に身につけられなかったんじゃないでしょうか。あそこで自身の愛情から氷河を生かしたら、それはもう師ではなくてマーマになると思います。
カミュは師ですから、道を譲るわけにも、迷うわけにもいかない。だけど氷河には生きてほしい。
そして氷河を生かすためには、自分を越えて勝ってもらうしかないという。
応えて見せた氷河は、最高の弟子だったし、最高の師匠孝行をしたんだと思います。

ただ、そうは言ってもフリージングコフィンで固めたまでは、カミュもそこまでの覚悟ができてなかった。
天蠍宮のミロに「あまい考えはかえってこの男を侮辱したことになるのだ!」とテレパシーで横っ面張り倒されて心をきめることができたんだろうなと思います。
ミロもミロでな。カミュに覚悟をつけさせて氷河を通す以上、友人の最期を彼なりに予感したでしょう。どうせこのアヒルはカミュに殺されるとか思ってたらわざわざ心央点ついたりしまい。
彼にとっては会ったばっかりの氷河よりも、友であるカミュの方がよっぽど大事な存在だったと思いますが、それでも氷河を通したところに黄金聖闘士としての覚悟を感じます。
この人ほんと最高の友人だと思う。


はあ・・・・なんか、考えれば考えるほど、無条件で美しい漫画だなあ。
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