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2007年1月8日設置 サイト→http://warakosu.syarasoujyu.com/
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登場すると楽しくなる奴が好きだと言うのはもちろん嘘では無い。

しかしなんだかんだでやっぱり最初は見た目じゃない?

初速はそこでつきますよね。ついてるのにブレーキ入れられる藍染が凄かっただけよ。

ジョーカーのビジュアルが好きだああああ
アーサーは自分であの服選んで着るセンスあるならどこにでも行って何にでもなれたろうよ。
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パンドラボックスのこの背負うための紐は一体誰がどのタイミングでつけたのだろう・・・

最初に聖衣を作った人?
でも、それだったら、そもそも箱と聖衣の形をもっと携帯しやすいようにするもんじゃない?
最初に聖衣作った人は絶対持ち運びについて何も考えて無かったと思う。

なら後世の誰かが持ち運びづらさにキレてこれをつけたのだろうか。
その場合、つける事自体はともかく、誰が許可したんだという疑問が生じる。
これただくっつけてるだけじゃないからね。箱をぶち抜いて金具つけてるから。
ただ蓋開けただけで眼が潰れるとか言われてるのに穴なんか開けたらもっと潰れるだろう。たぶん。

時のアテナが許可した?
でも、言える?アテナに「パンドラボックス運びづらいんで紐つけて良いですか」とか。
そんな上下フランクな関係築いてた時代があったのかよというのと、その時代よっぽど他に重要な案件なさそうだなというのとそんな暇な時代にアテナ生まれないだろとも思ってしまう。

あるいは、この紐が無かったことによって重大な事故が起きたとか?
聖衣を持ち歩いていなかった為に敵に負けた、聖衣から眼を離した隙に泥棒に盗まれた、そういうことがあったのかもしれない。
それで紐をつけて携帯するよう義務付けた・・・定期か何か?
しかしだとすると、この当時は聖衣は自分の意思で飛んだり跳ねたりできなかったという事になる。
紐をつけても状況が改善しないのでさらに聖衣に意思を持たせて盗難を不可能にした、この順序でないと理屈に合わないが、そんなことするぐらいなら新しいのを作った方が早い。
第一この改善はあまりに聖闘士を甘やかしすぎではないだろうか。自分で注意しろよと言いたくなる。

やはり最初の人が、何も考えずに芸術思考だけで聖衣と箱を作り、そのクソみたいな実用性に周りから不評を浴びまくってブチ切れながら紐をつけた。そう考えるのが妥当なのだろう。
ヤケクソ感はある。背負ったら背中が無理矢理ピンとなりそう。

こんなの持つの嫌だって誰も言わなかったのかな初代聖闘士・・・
痩せてないホアキン・フェニックスをメイクアップしたらハロウィンで調子づいたチャラ男みたいになってしまった件。

やはり減量は大事だったのではないか?
痩せたホアキンならチャラくならないのではないか?
ちゃんとやべー奴になるのでは!?

ということで、やってみました。


①ホアキン・フェニックス(素)


普通です。
まずは髪をおろしてみます。





②髪をおろす


色々言いたい事がありそうなアーサー。
まだ普通の人ですね。
ここから映画の順通りに、彼をジョーカーにしていきます。




③髪を染める

髪を染めると、雰囲気が変わりました。
髪型だけで人は生まれ変われるという見本。しかし似合って無くね?
映画ではこの段階はもう少し暗い色で、染めた直後ということもあって乱れていましたが、そこまで追うと何枚描いても足りないので、最初からセット。



④白塗り

白塗りしました。
この顔の時のシーンが映画では一番緊張感あって怖かったですね・・・



⑤ピエロメイク

ピエロになって・・・・



⑥服と背景オン!



ああ、これはやべー奴だ。

こんなの前に出て来て声かけられたら昼でも泣く!
減量だ!やっぱり減量が大事だったんだ!

眼は一切変えて無いはずなんですが、なぜこんな・・・ホアキンは最初から人殺しそうな眼をしてたということなのか・・・?
割と優しそうな眼してなかったか・・・?

不思議。
拍手コメ「デスマスク、案の定ピエロ似合いますね。でも、これで中身もピエロだったら嫌


それは。

割とド直球にデスマスクが嫌だと言うことでは。



えっ、だっ、中身、そん・・・(言葉にならない)

デスマスク、普通、ピエロ・・・(言葉にならない)


えっ??
だって、どういうこと?
「だったら」って、だったらってこと、ある??
今のデスマスクは、じゃあ何?


「芸術とお金は一心同体ではないか。高価な作品で無ければ大衆は見向きもしないし、昔から芸術にはパトロンがいたし、お金がなければ芸術もなくなると思います」

という内容のコメントをいただきました。
はっきり言うと、それは貴方が、貴方個人が、お金に裏付けされた物しか芸術だと思っていないだけです。

ラスコーの洞窟壁画は金で依頼されて描かれたわけでもなく、見出される前からそこに存在していました。埴輪だって土偶だって、楽しいだけで作ったであろう芸術品はいくらでもある。
究極的には、役に立たないが存在するというのが芸術の本質だと思ってます。役に立たない事が受け入れられるから芸術は良いんです。

私はこの、高額でなければ大衆は見向きもしない、価値が無い、という意見を、大衆側の人間の口から聞いた事はありません。
だってこれ言うと自分が金の亡者で芸術センスゼロみたいに見えますからね。特に日本人はこれ言いませんよね。
これを言うのは常に、行き詰った作家。特に、新卒で就職して制作時間をうまくコントロールできなくなった作家、結婚して家庭維持が大変で制作時間を(以下略)などが、筆を折る言い訳にするのがこれでした。散々聞いた。
大衆や自分の才能不足のせいにするというね。ぶっちゃけ、ただの努力不足ですよ。

周りにそういう方がいてそういう事言ってるのだったら、聞き捨てて良いと思いますよ。影響されるだけ無駄な考え方です。

その手の作家の迷走しているところは、金銭欲と名誉欲を芸術目的とごっちゃにしているところです。
金が欲しいなら金が儲かるように努力しなければいけない。知名度上げたければ知名度があがるように努力しなければいけない。当たり前です。ビジネス的に成功したがってるんだからビジネス的な努力をしろよと。
その分析と努力と我慢をしないで、好きな作品好きに作ったら誰かが発掘して成功する!と思ってるのは甘いですよね。
芸術家は特別な人間じゃありません、ただの労働者です。コンビニでバイトしてるだけで自分をジェフ・ベゾスだと思って欲しいと主張する人がいたらアホだと思うでしょう。それと同じ事をなぜか作家の卵は平気で言う。
単に作るのが好きならリターンが無くても作り続ければいいんですよ。ねえ。

また、パトロンは、金を出す人に非ず。それはスポンサー。
パトロンは、芸術家に仕事を与え、育成し、何より、その作品を保管する責任を持つ人です。
昔の芸術家にだって必ずパトロンがいたわけではない。パトロン無しでこつこつ好きに制作していた人もいました。つうかパトロン持ちよりずっと多くいたと思う。
が、そういう人の作品は死後に捨てられたり散逸してしまって、後世に中々まとまって残らないのです。だから、我々が目にする機会が無いだけです。

メディチ家なんかはパトロンとスポンサーを兼ねてましたが、彼が巨額の投資をしたのは今のような作品購入というより、すげー街を作るという壮大な構想の必要経費です。
すげー街を作りたいから芸術家を片っ端から雇ったわけで、ルネサンス期の芸術家は工房制ですから、今でいう電通みたいなものなわけです。絵でも彫刻でも建築でもなんでもやりますという人々です。
これはもう、芸術を利用した壮大な投資です。今に至るまでそれで利益を上げてるわけですから、大成功した投資。

そういう時代は、貴族的な特権階級が作品を代々伝えながら保管してくれました。作家個人はコネを作るためにロハで作ったりもしていたでしょう。貴族ってキャッシュで払うの無粋みたいな文化あるし。
ただ、産業革命と戦争を経て貴族が凋落しますと、権力が実業家や資本家に移ります。
貴族は金欠になったため、領地を失くすよりはまず美術品を売ります。
所謂成金である実業家は、文化人としてのステータスと貴族コネクションが欲しくてそれを買います。

成金が美術品を買う、というとなんか下世話な感じがしますが、労働党議員がジョージ五世に宮廷マナーを教えてもらってすっかり王様のファンになり貴族議員よりマブダチになったという逸話もあるように、成金層にとっては今まで縁の無かった美術品は、本当に美しく新鮮に感じられて感動したんじゃないかなと私は思っています。

それに、力のある作品は持ち主を絶対虜にしますしね。

成金は作品が好きになる。文化人としての素養を示すために、同じ作家の作品、同時代の作品がもっと欲しくなる、よし買おう(この発想が成金)、ということで、市場が活発化して作品が高騰します。
美術品には投資の価値があるとなると、一攫千金狙いで山師も参戦。画廊って結構山師崩れのとこありますね。

過去のめぼしい作家の物が落ち着くところに落ち着くと、今度は今の作家の作品で(うまみのある)市場を維持しようとしますので、それで芸術のマーケットが固まって行ったのだと思います。

また、写真が登場したことによって、記録目的の風景画や肖像画は存在意義が無くなりました。
貴族が肖像画を画家に描かせる事も無くなった。
その代わり、芸術は今度は精神世界を題材に進化していくのですが、そうなるとですね、誰が見ても上手いという作品にはなりません。一部の人にはウケても、他の人にはゴミにしか見えない、そういった作品が登場します。

ゴミに見えてしまうと捨てられるというリスクが出るので、じゃあ捨てられないためにはどうするかというと、高額な物になるのが一番手っ取り早いのです。
どう見てもゴミであっても、1億で買った物だったら中々捨てられませんよ。

なので、ゴミに見える作品がアホみたいに高額である、というのは、筋の通ったことです。
ゴミほど高額でないとね。捨てられちゃうからね。ほんとに。
ゴミではないですが、高額作家で有名なジャスパー・ジョーンズなんかも既に古臭い臭いがしてますし、現代アートのうち刹那的な物は高額を纏わないと残れませんね。
芸術の中にはそうやって、生き残るために金を利用するものがあるのです。

逆に、一目でああこの作品は大事にしたい!と誰にでも思ってもらえるものなら、タダでも生き残れるので良いんですよ。
アメリカのマーケットは巨額の動く場所ですが、国によってはもっと小規模で落ち着いた市場を持ち、金の力に頼らず大切にしてもらえる客を得て活動している作家もおられます。
どの国に合うかっていうのも、作家ごとにあるんです。どうしようもなく出る個性がありますから。
幸せな感じの個性が作品に出る人はどこでも客を捕まえやすい。
しかし、例えば死の影なんかが常に匂う作風の作家もいて、そういう人は市場や売り出し方を選ばないと難しいですよね。

もう一つ言うと、大衆は結構率直に芸術を見てます。可愛いと思ったので買う、よくあることじゃないですか。
高額な絵画に手を出さないのは不景気だからで、好景気だったら彼らの購買意欲は美術品にも及ぶでしょう。ちょっとしたリトグラフなんかは今も買ってる方、多いのでは無いですか。
また、銀座や横浜では素人の生徒さんによる絵画教室のグループ展もよく見かけますが、良い絵を描いてますよ。みんな描くのが好きでね。
そういうものを芸術では無いと、軽んじないようにお願いしたいです。

繰り返しますが、高額でなければ大衆は見ない、と思っているのは貴方がそういう作品しか芸術だと思っていないだけです。

そう、私は思います。

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